ある晴れた六月の午後

 これは恒例のSOS団の活動。週末の市内探索でのこと。
 午後の班分けで長門さんとペアになった僕は、さっきから一言も会話が成立しないことに肝を冷やしていた。
 毎週行っていることなので、今までペアになったことは何度かある。確率の問題だ。謎めいた存在の彼女とふたりきりになって、安堵することはない。
「さて、今日はどこへいきましょうか?」
「…………」
「長門さん、どこか行きたいところはありますか? スイーツのおいしい喫茶店でも、流行りのアウトレットショップでも、このあたりならひととおり知っています。どこでも案内できますよ」
「…………」
 彼女はいつものセーラー服で、いつものスクールバッグ。夏服の爽やかな水色は、きつい日差しに照らされていた。あまり太陽に強いとも思えない白い肌が、まるで光を透かすような色味を帯びている。
 六月の半ば、ニュースが伝える天気予報では梅雨の最中だというのに、すがすがしいほどの晴れだ。
 長門さんは僕の存在など最初からなかったかのように、駅前広場に突っ立っていたが、やがてトコトコと歩き出した。その方角は――むろん、考えるまでもない。
 中央図書館だ。彼女の一番のお気に入り。
「図書館ですね。おともしましょう」
 近づきすぎないように並んで、僕は歩くペースをゆるめて、長門さんに歩調を合わせた。すこしでも気を抜くと簡単に追い越してしまいそうになる。
 長門有希という少女は、とかく寡黙で、話しかけてもあまり返事をしてくれない。もっと言うと、目も合わせてくれない。もっと言うと、もしかして僕は厭われ、嫌われているのかもしれない。いや、むしろ、古泉一樹の姿が彼女の目には見えていないのかもしれない。
 そう疑うくらいに、僕は眼中の外に置かれている。悲しいことに。
 徒歩で二十分ほどの道、ただ黙って歩くのも芸がない。僕は隣の長門さんに、思いつく限りの話題を振ってみた。お笑い芸人のようにぺらぺらしゃべる長門さんというのは想像を絶するが、そこまでいかなくとも――もう少しは、交流を試みてみたかった。
 この小柄な少女は、僕の好奇心をいやおうなく刺激する。まるで小学生の時分に戻ったかのように、わくわくする。泉のごとくわきでる疑問をぶつけ、質問攻めにしたくなる。この宇宙のことやこの星の未来のこと、涼宮さんのこと、朝比奈さんのこと、彼のこと。そして――長門さんのこと。
 実際には、聞いたことがないけれど。
「長門さん。最近、なにか面白い本はありましたか?」
「………」
「おすすめのものがあれば、ぜひ教えてください。一読してみたいもので」
「………緋色の研究」
「ああ、知っていますよ。ホームズの初期作品ですね。僕は、実はシャーロキアンなんですよ。あれははまりますね。とはいえ、ポアロも明智小五郎も同じくらいに好きですが……。魅力的な探偵は甲乙つけがたいですね。小林少年になりたいと小学生の時、何度思ったことか……」
 長門さんは首を横に振った。
「違う。小説のほうではない。『緋色の研究』」
「え? ……本当にそういった色彩に関係する書籍があるんですか?」
 こくんとうなずくと、スクールバックから長門さんは、僕の読めない言語で書かれた奇怪な表紙の本を取り出してきた。 
「色彩学の最新鋭にして最高峰。おもしろい」
「なるほど、それは面白そうですね。よろしければ今度貸してください」
 その場で手渡され、僕は軽く満足感を得た。
 ありがとうございます、と礼を告げる。どんなにわけのわからない難しい本であろうと、長門コレクションは興味深い。手にとって開いてみたくなる。
 長門コレクションの本棚からたまに借りる本に、謎の宇宙人的メッセージがはさみこまれていないかと、僕はそのたびに躍起にやってページをめくるのだが、今までなにもはさまっていた試しがない。
 でもいつかはきっと入っている。公園で待っている、とか鍵をそろえよ、とかそういうメッセージが。帰宅したらすぐにこの本も調べてみようと思った。
「ところでコンピュータ研の活動のほうはいかがですか?」
「………」
「噂では、またなにか新しいゲームを作っているとか」
「………」
「その内容は、こっそり教えていただくわけにいきませんか?」
「……まだ公開できない。秘密」
 最近は、何度か根気よく問えば、一言くらいは返答がくるようになった。出会ってから数か月は、丸ごと無視、なんてことも日常茶飯事だったので、いくらかマシになったといえる。
 夏らしいアスファルトの照り返しのなかで、日蔭のあいだから吹き抜けてくる風が、長門さんの前髪を揺らしていた。
 目的地の目前までくると、その足がぴたりと停止する。
「ああ……残念ですね、今日は、休館日でしたか」
 中央図書館はゴーストタウンの一角のように静まり返っていた。閉鎖された入口の表示によると、長期整理期間のために一週間ほど休館にしているそうだ。館内では忙しく職員たちが本の整理のために働いているのかもしれないが、外からではなにも見えない。
「どうしましょうか。どこにいきます?」
「どこにでも。あなたのいきたいところへ」
「ふむ、そうですね……じゃあ、僕の好きなところに行きましょう。ついてきてください」 
 


 ******



 着いたのは、がちゃがちゃぴこぴこと機械音がにぎやかな場所だった。人も多い。僕らと同年代くらいの若者が音頭を取って太鼓をたたいたり、リズムゲームのまえでしきりに手足を動かしている。
 長門さんは夏休みに祭にいったときのように、物珍しそうに、広い空間を一望する。
「ゲームセンターですよ。今まで来たことはありませんか?」
「ない」
 そういえば、SOS団の活動内では、まだ足を踏み入れたことがなかったような気がする。
 長門さんはぬいぐるみや各種アニメやゲームのプライズ、お菓子類などが商品となっているUFOキャッチャーのガラスケースのまえに足を止めた。
 彼女は透明な瞳で、とある一点を見つめてかたまっていた。その一点に熱を溜めていき、いずれ焼けそうなほどの視線だった。
 そこには、見たことのないぬいぐるみがたくさん詰まっていた。
 水色の胴体と緋色の瞳をしたそれは、よく見れば神人に似ていなくもない。いや、かなり似ていた。
「……長門さん、もしかしてそのぬいぐるみが欲しいんですか?」
 長門さんはなんとも答えなかった。
 答えなかったものの、視線は相変わらず、神人くんぬいぐるみを見ている。その目が暗に語っている。何度か訪れた、殺風景な彼女の部屋を、ファンシーなぬいぐるみで少女らしく飾ってみても、彩があっていいかもしれない。僕はそう考えた。 
 僕の手はすでに己の財布から小銭を取り出していた。
 これくらい安いものだ。
 ひとまずは小手調べ。百円玉をちゃりんと投入する。
 僕の手元のボタンによって、UFOキャッチャーのクレーンが左方向に動くのを、長門さんは隣で熱心に見つめていた。
 狙いを定め、今度は奥方向へと動かした。アームが開き、クレーンがおりていく。神人くんの頭部分をアームで掴んですくっても、ぬいぐるみの重さに耐えきれず、すぐに離してしまった。少し浮いては、ころんと神人の群れにあえなく戻っていく神人くん……。
 一度プレイしてわかったが、ここのゲームセンターは、ひどくアームの強度が弱かった。ちょっと詐欺ではないかと思うほどに。
「まあ、最初はこんなものでしょう。見ていてくださいね。五百円で片をつけますから」
 ここで引き下がるわけにいかない。僕はさらに五百円玉を取り出して、コイン口に投入した。これで六回、挑戦できる。
 と、プレイしている途中で気づいたのだが、僕は今までの人生を反芻するかぎり、UFOキャッチャーでなにかのアイテムをキャッチできたためしがなかった。
 長門さんがじっくりと、透明な箱のなかで動くクレーンを目で追っている。もしかしてまったく僕の腕を期待していないのかもしれない。そんな瞳だった。そのプレッシャーがかかったこともある。
 それでも、自分とてつもなく下手だったことを改めて知ったのは、六回目の挑戦が失敗に終わったときだった。いや、正確には七回目か……。
 いつのまにか額に噴いていた微量の汗をぬぐい、僕は微笑んだ。
「すみません……今日は、どうやら日が悪いようですね。また今度、あらためて挑戦してみます」
 勝負ごとにはとことん弱いが、単純なところで負けず嫌いの気質がある。笑顔で手を上げながらも、僕の腹の内は悔しさで溢れていた。
 サイコキネシスの超能力でも使えたら、こんなもの、どうとでもなるのに。
 はあ……と、我知らず、僕はため息を吐き出していた。

「長門。古泉。ここにいたのか」

 そのとき、救世主かヒーローのようなタイミングで歩いて登場したのは、SOS団唯一の平団員こと、キョンと言うあだなの自称「普通人」の男子生徒だった。
 僕は笑顔で迎える。
「あなたこそどうしたんですか。涼宮さんと朝比奈さんといっしょでは?」
「それがな、道あるいてたら、道ゆく美容師に、朝比奈さんがカットモデルに頼まれたんだ。ハルヒは断ったんだが、話してみればけっこうおもしろいおっちゃんで、泣き落とされて、引き受けることになったってわけだ。まあ別に、怪しい美容院とかではなかったから、俺だけ抜けてきた。時間もかかりそうだし……」
 カットモデルというと、髪形の見本の写真になど使われるのかもしれない。カットといっても毛先をそろえるくらいで、ただ美容師は朝比奈みくるの容姿に着目したのだろう。
「お、UFOキャッチャーか。ガキのころから得意だぜ、俺。よく妹や、従妹に頼まれて取ってたからな。長門、どれがほしいんだ?」
 長門さんは迷いなく、神人くんぬいぐるみを人差し指でスッと指示した。
 あれよあれよという間に、ことは運んだ。止めるヒマもない。
 ああっ!と思った時にはもう遅かった。僕が一発でぬいぐるみを取って、いいところを見せようと思ったのに、そのおいしい役割は横から割り入ってきた彼に、あっさりと奪われていた。しかもたった百円の投資で。
 当然のように出入り口のダクトに一体の神人くんを器用に落とした彼は、なんでもないように手を入れて取り出し、長門さんの手のなかにぽんと置いた。
「ほらよ」
 そのぬいぐるみの赤い目を十秒間は見つめてから、長門さんは顔を上げる。
「ありがとう」
 感謝の言葉を彼女は述べた。
 まったくもってこちらの所在なし、である。僕の立場というものがない。まあ、この彼との関係において、今に始まったことではないが。
 ふたりからじりじりと距離を取って、僕は気づくと両替機の前に突っ立っていた。ぼんやりと千円札の表示を見つめる。いくら資金があったところで、ひょいっと横から現れる彼には敵わないのだ。
「――おい古泉、どうしたんだ。拗ねてるのか」
「え? まさか。なぜ僕が拗ねるんですか。あなたの腕がお見事だと、感心していたところですよ」
 しまった、油断して顔に感情が出ていたらしい。僕は平静に、完璧なスマイルを浮かべた。
「明らかに拗ねてるじゃないか。そうか、おまえもあのぬいぐるみ欲しかったのか?」
「誰がそんなこと言いましたか?」
「遠慮するな。ついでだ。おまえの分も取ってやるから百円よこせ」
 あまりにも強引に手を差し出してくるので、僕は思わずしたがって、彼の掌に一枚の百円玉をぽんと乗せていた。
 そして。
 ものの一分もかからずに、彼はさきほどとまったく同じ手際で、弱いアームという条件の悪い中で神人くんぬいぐるみをゲットした。大きくも小さくもない、手のひらサイズだ。
「よかったなー古泉」
 複雑な気持ちで、受け取る。僕は彼に取って貰ったふわふわもこもこの神人くんを、ぎりぎりと痛いほどに両手で握りしめた。
「あ、ありがとうございます。命より大事にしますよ」
「おまえ、まだなんか怒ってるのか……?」
 そのときだった。黙って様子をみていた長門さんがすいっと動き、僕と彼の間に割って入ってきた。それから、くるりと僕のほうに向き直る。
「? なんでしょう……」
「おそろい」
 長門さんが僕を見上げて、ぽつりと言った。
「え?」
 長門さんは手に大事そうに抱える神人くんぬいぐるみを、僕の手のなかにある同じぬいぐるみに近づけて、隣あわせた。一瞬なんのはなしだか分からなかった。
「あ、そうですね! おそろいです」
 素直に胸がはずんで、心からの笑顔がこぼれた。たったそれだけでいろんなわだかまりが氷解していった。
 ……まあ、いいか、と僕は思っていた。
 僕と長門さんの、おそろいの神人くんぬいぐるみは、閉鎖空間で暴れているときには想像もつかないようなチャーミングさで、緋色の瞳を輝かせていた。



 ――――後日――――
 
 仕事で行き会ったとき、森園生さんはカバンに神人くんマスコットをぶらさげており、携帯電話には神人くんストラップをくくりつけていた。さらに、この前みたものよりもサイズの大きな神人くんぬいぐるみまで手に抱えていた。特注でもしないかぎり、あるわけのないデザインだ。
 僕は己の目を疑った。
「森さん、一体どうしたんですか、これ!」
「実はー……締め切り前に上司に三十本案出せっていわれて、困り切って、冗談で会社に提出したデザインがまさかの商品化されちゃったのよ。しかも女子高生を中心に静かなブームが巻き起こっているんですって。どうでもいいけど、静かなブームって全然ブームじゃないわよね。……まあ、誰も神人だなんてわからないし、いいわよね……ふふ。実はデザイナーとして臨時収入もあったのよ」
 ふだんはデザイン会社で会社員として働いている森さんが、ふふう、とあやしく微笑んだ。 
「こんど、みんなで焼き肉でもいきましょう。おごるわよ」

 
 それから。
 キュートだけどちょっと気持ち悪い神人くんの新商品が出るたびに、放課後、僕は長門さんと連れだって、ゲームセンターに寄り道するようになった。
 ストラップ、手帳、ノート、ペンなど。僕らの周りには神人くんグッズが浸食しはじめている。
 今ではコツをつかみ、すっかりUFOキャッチャーが得意になった長門さんは、僕のぶんまで商品を取ってくれるようになった。もちろん情報操作などではなく、彼女の実力である(たぶん)。
「すごいですね、長門さん。すっかり得意になってしまわれて。どうしてこんなに難しいことができるのか、本当に不思議です」
「こんな簡単なことができないあなたのほうが、謎」
「そうですか………」
 長門さんに、本当に不思議な人を見るような目で見られてしまった。
 世界は、今日も平和です。
文:点瑠